裁判所の地下食堂で 「王泥喜さんは、此処で待っていて下さい。」 審議の終わった帰り、裁判所の地下食堂前でみぬきは、くるりと可愛く反転するとそう告げた。 「え?なんで。」 王泥喜の言葉に、みぬきは微かに頬を赤らめ視線を逸らす。 「みぬきのパンツは小宇宙ですけれど、それだけでは駄目な事もあるんです。」 「は?」 「うら若き乙女には聞いて良いことと悪い事があるのです。いいですね。一歩も動いちゃいけませんよ。みぬき、直ぐに戻ってきますから!」 子供に言うように告げられ、王泥喜はポツンと扉の前に取り残された。 多分、トイレ。それは良い。それは良いのだがこの場所が悪い。 中からは、あからさまな食欲をそそる香りが漂い、食費という名の予算に限りがある王泥喜にとってこのまま欲求に流される事など出来ようもない。 もしも、ここに牙琉検事でもいてくれたのなら、クスクスと綺麗な笑みを浮かべ、取り調べ中の被告人の様に、『カツ丼』でも奢ってくれたかもしれないなぁ。などと考える。最も彼は、個人的にはこんな場所で食事はとらないのだろうけれど。 つらつらと気を逸らすために考えてみても、膨れ上がる欲求にはどうしても勝てず、王泥喜は香りだけなら、「ただ」と扉の中に身体を滑り込ませた。 入口と食事をする場所との壁として置かれている観葉植物の間から、中を覗き込む。 「え?」 そこに思っても見なかった人物の姿を見つけて、王泥喜は目を見開いた。 淡い色の髪に、褐色の肌。すんなりと伸びた綺麗な立ち姿は、牙琉検事のもの。そして、彼の横にいる人物に再び息を飲む。 『な、成歩堂さん…?』 裁判所で何者に見えるかと告げれば、殆どの人間が(被告人)と答えるであろう出で立ちの成歩堂が、椅子から立ち上がったところだった。 牙琉検事も、そのテーブルに座って何事が会話していたのだろう事は、残っている紙コップの数で推測出来る。けれど、彼は笑ってはいない。 基本的に愛想の良い彼にしては珍しい事だと思っていると、きつい表情で、成歩堂に背を向けた。しかし、ぐいと肩を引き寄せられ、その耳元に何事か囁かれた途端、牙琉検事の濃い色の肌は全て紅く染まった。 頬だけじゃない、耳もその色に浸食されている。 眉間に皺を寄せ、睨み返す表情は何処か艶があって、王泥喜の心臓は、高く鼓動を打った。 再び近付く成歩堂の顔に、さらに皺を深くした牙琉検事は、大きく腕を回して、自分の肩を掴む腕を振り払い、一歩下がって距離をとる。 ぎゅっと襟元を片手で握りしめて、成歩堂を避けるように大きく回り込むと、出口に向かって大股に歩き出した。 それを見送るかたちで振り返った成歩堂は、口元を緩めてにやりとした笑みを浮かべている。何か企んでいる、嫌らしい親父顔だと王泥喜は思う。 からかわれたんだろう。気の毒にと、これは素直に思った。 尊敬の念は、とりあえず余すところなく持っているのだが、成歩堂の性格にはほとほと自分も振り回されているのだ。牙琉検事との数回にわたる意見交換で、ふたりの見解に食い違いはない。 やれやれお疲れさまと言ってやるつもりで、牙琉検事の前に姿を見せた王泥喜は、言葉を失った。 彷徨う瞳が王泥喜を捕らえた瞬間に、響也の顔色は見る間に青く変わったのだ。 まるでリトマス試験紙だ。王泥喜は学生時代の細やか化学実験に思いを馳せる。 「おデコく…ん。どうして、此処に。」 普段の彼は健康的な肌色なので、余計に、その不自然さは際だった。明らかな動揺も見抜くまでもない。 でも、何に対してなんだ? 王泥喜の疑問は、しかしその場に置き去りになる。 (どうして此処に)を王泥喜が答える間もなく、走り出した響也は、あっという間に視界から消えた。 ぽかんと見送り、これは追うべきなのかと振り上げた腕は、いつの間にか近付いていた男に掴まれていた。 「あれ、どうしたの。王泥喜君。」 先程のにやり笑いを顔に浮かべたまま、成歩堂が腕を掴んでいる。嫌がらせに、握り返してやったらあっさりと離れていった。 「…どうしたって、仕事ですよ。」 「ああ、そうだっけ?」 天井を見つめて、はははと笑う。やっと思い出したというリアクションだ。嘘をつけ、王泥喜の触覚が眉と同じ形になる。 「みぬきは一緒じゃなかったんだ。」 「みぬきちゃんが、用事があるから此処で待っててと言ったんです。」 「そうだよね。此処も使えないほど貧乏だもんねぇ。」 アンタもだろうが。浮かんだ言葉は唾を引く。 「成歩堂さん…。」 ん〜ととぼけた親父の顔がこちらを向く。 「牙琉検事に何してたんですか?」 「おや、見てたの?」 「見てました。」 途端、男の笑みが深くなる。帽子についたにこにこマークが空々しいほどだ。 「ちょっと、この間の頼み事の件でね。」 「…七年前の出来事をネタにして…じゃあ、ないですよね?」 幾らなんでもと下から睨み上げるように問うと、パーカーのポケットに腕を突っ込んだまま、はははと仰け反る。 …事実だ、この親父。確定有罪だ。 「まぁ、なんだなぁ。」 天井を見つめたまま目を細め、にまと緩めた口元と目尻は、王泥喜の脳裏を嫌な予感で染めていく。 「霧人の件もあったし、まさかとは思ったが。初めてなら、そうだとそう言ってくれりゃあいいんだ。まぁ、あの子も相当意地っぱりだからな。」 ……………はい? 王泥喜の広い額から滝のような汗が降り注ぐ。 二十四の男を掴まえて、初めてと聞き(お使い?)と思うほどに王泥喜は天然ではない。いっそ、牙琉検事ならわからないが。 それに加えるのなら、成歩堂に耳元で何事が囁かれ、真っ赤になっていた牙琉検事の姿から何を思いつくかと問われれば、下世話な想像しか出て来ない。 「なんて言うか…悪くはなかった。」 誰に聞かせるともなくポツリと呟いた言葉。無精髭だらけの顎に手をやり思い出し笑いを続ける親父に、王泥喜の懸案は確定へと変わった。 一発いれるべく握った拳は、そこへ顔を出した少女によって、行き先を失い背中へと回ったのだが。 「王泥喜さん。お待たせ〜。あ、パパ!」 「やぁ、みぬき。」 翳した手を左右に振ってみせた成歩堂に、みぬきは小首を傾げる。 「パパ、どうして此処にいるの?」 「パパは牙琉検事に奢ってもらったんだよ。」 両手を胸元に引き寄せ、みぬきの表情はパッと華やいだ。彼女が未だにガリューウェーブのファンであることは疑いようもない。いいなぁ、いいなぁを繰り返した。 「あ〜パパ狡い。でも、高級レストランに比べたら、パパってば全然謙虚よね。」 「だろ〜。パパは遠慮とか配慮とかいう言葉を知っているんだ。」 集るの前提かこの親子。 咎める気にもなれずに、王泥喜は響也が走り去った方向を眺めた。成歩堂と何があったのか、どうして自分を見て顔色を変えたのか、浮かぶ答えは全て、『異議申し立て』を望むものばかりだった。 content/ next |